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神保健一物語

生まれてから高校生時代まで

1964年東京オリンピックの年に生まれました。

私は、東京オリンピックの年、1964年6月24日に愛知県豊田市で生まれました。
幼いころ体の弱かった父は、健やかに育つようにとの願いから“健一”と名付けたそうです。
私の幼稚園入園に合わせ、それまでアパート住まいだった一家は、
隣町の岡崎市に念願の家を建て引越ししました。

当時トヨタ自動車のエンジニアだった父は、自ら新居の設計図を書き、
納得するまで何度も建築中の現場へ足を運び、大工さんと打合せをしていました。

4歳の私、大工さんの仕事を初めて目にした

4歳の私、大工さんの仕事を初めて目にした

4歳のころ

当時4歳の私でしたが、初めて大工さんに出会い、初めてその仕事ぶりを間近で見ました。
その時の大工さんが柱をカンナで削る「ヒュ~」という心地いい音を今でも覚えています。
「家」というとても大きなものを作ってしまう大工さんに、幼ごころにも「凄いなぁ」と憧れを抱いた瞬間でもありました。

小学校入学以降

小学校入学間もなく、1つ下の弟と自宅の布団の上でプロレスごっこをしていて左腕の骨を骨折し、
3カ月の入院生活中に、同じクラス全員から励ましの手紙をもらい、知り合って間もない自分のことを
こんなにも思いやってくれていたのかと大変感動したことを覚えています。

当時は学歴社会だったので、誰もが一流大学を出て一流会社へ就職することが人生の王道と疑わなかった時代でした。
私も教育熱心だった両親に入れてもらった小中高一貫の国立付属学校に通い、
疑問を感じつつも周りの皆が大学に進学するという流れに飲み込まれるしか方法を知らず、同じ道を選びました。

大学生から一転、美術の世界を垣間見る20代

東北大学工学部資源工学科に入学しましたが、授業にはほとんど出ず、
当時所属していたサイクリング部の活動にのめり込みました。

東北、北海道の山という山の道を自転車で走り回っていたのです。
今思えばこの時、山や大自然の素晴らしさや美しさの虜になってしまったのです。
そのような感じで常に私は日に焼け、当時のあだ名は「走る茶色」でした(笑)。

将来の仕事について考えたころ

この頃から仕事をするなら机に向かってするより、外で体を使う仕事の方が向いているなぁと
将来について感じ始め、最後には大学に居ても自分のためにならないと強く思い、
きっぱり大学を辞めてしまいました。
そして、以前から興味のあったデザインや美術の世界へ行こうと東京に引っ越し、
雑誌に載っていたあるスタジオに「見習いとして使ってくれないか」と電話し、入社しました。

20歳の頃の私と家族

20歳の頃の私と家族

収入より憧れ

収入より憧れの世界で自由に生きている実感があって、それだけで楽しい日々でした。
何もない「無」からオリジナルの形を生み出す、究極のものづくりが美術なんですね。
しかし、そんな楽しい日々も長くは続かず、生活も気持ちも苦しくなるばかりで、途中で挫折してしまいました。

その後

その後、高収入なアルバイトを片っぱしからやりました。宅急便、ドカタ、ペンキ屋、屋根屋・・・どれも屋外で体を使う仕事でした。
体力だけは自信がありましたから(笑)。
『一生、この仕事をやって行こう』という決定的な職業にはまだ巡り合えてなかったので、まだまだ充実感は味わえてない日々を過ごしていました。

自分探しの旅へ~結婚

これから何をして生きて行こうかと途方に暮れていた私はインド、ネパールへ数カ月間の一人旅に出かけました。

美しく雄大なヒマラヤ山脈の麓で暮らす人々。
自然しかないけれど、質素で明るく幸せに暮らす現地の人たちに多く出逢いました。
言葉はわからないけれど想いは通じあい、出会った人々に前向きな生き方に勇気をもらいました。

その旅の途中、インド中央部の小さな町で、後に妻になる女性に出会いました。
彼女たちも旅行でインドを訪れていたのでした。

運命を感じた私たちは帰国後、すぐ結婚。翌年、長男が誕生しました。

やっと見つけた天職~大工さん

養う家族ができたのですが、まだこれだという仕事に巡り合えていません。
その中でも一つだけ怖くて手を出せない職種がありました。
怖いというのは裏を返せば「憧れの職業」です。
それが私にとっては「大工さん」だったのです。

大工の世界は10代の若い頃から親方に弟子入りするのが普通なので、30歳過ぎの男を雇ってくれる所はなかなかありませんでした。
それでもあきらめず探し、何とか横浜で弟子入りすることができ、拾ってくれた親方に感謝の気持ちでいっぱいでした。
仕事をしながら、「よし、これこそ天職だ!やっと見つけた!」と心から思えました。

がむしゃらに仕事を覚えました。10年以上のスタートの遅れを挽回しようと。
大工は刃物を扱うのが仕事です。夜遅くまで鑿(のみ)・カンナの刃を研ぐ日々でした。
今思い返すと、一流の大工になって今までの「すぐ途中で投げ出す自分」にサヨナラしたい、
そして妻にも生活の心配をさせない、という想いがあったからこそ頑張れたのだと思います。

なんとか大工として食べていけるようになったころ、家族は増え、4人の子供を養うようになっていました。

一家6人、横浜から伊賀へ移住~無職な日々

2009年4月、私たち神保一家の「終の棲家」である伊賀市老川に越してきました。
横浜でも1年間ずっと不動産を探しましたが、敷地は狭いのにやたらと高額で
こんなところで一生暮らす勇気もなく山や自然の好きな私たちに
ぴったりな場所を探していたら、三重県伊賀市にたどり着きました。

しかし、当時はリーマンショック直後で仕事が全くありませんでした。
下請けの仕事を探そうとハローワークに半年ほど通いましたが、
働き口がなく悶々とした日々を過ごしました。

築三十五年の我が家です

築三十五年の我が家です

前進あるのみ、自分のお客さんを持とう

人間力を上げるために、自分を磨こう

今思えば、この大不況の時期があったからこそ、独立を決心出来たのだと思います。そうです、もう後がなくなったんです。

「家族を路頭に迷わすわけにいかない・・・」 「仕事が見つからないなら、自分で起業するしかない」
「悶々と腐っていても、仕方ない。やるだけやって、ダメだったらその時考えよう」

技術には自信がある、では足りないものは何か?
独立すると決めてから、商売のやり方を徹底的に勉強しました。

「どうやってお客さんと知り合って、信用していただき、仕事を依頼してもらうか。」

これが出来なければ、どんなにいい腕をもっていようが売上は上がらない。私に魅力がなければ、お客さんは振り向いてくれない。
人間力を上げるために、自分を磨こうと思いました。

私の使命

それまでは、現場でどうしたら効率よく作業ができるのか?とか どうしたら、綺麗で丈夫な家がつくれるのか?とか、
現場で働く自分たちのことや、技術的なことばかりを考えていました。

でも、ちょっと待てよ!

大金を出して家造りをするのはお客さんじゃないか、どんな思いを込めて家造りをされているのか、
もっともっと耳をかたむけるべきだよな、建築のプロとして。
そう思い始めた途端、スーッと心のもやもやが晴れてきたのです。

「不安で不安でしょうがないというお客さんの気持ちが少しでも晴れるよう丁寧にアドバスさせていただく」
それが私の使命だと思ったのです。

山のめぐみ舎の由来

また、四方を山で囲まれている伊賀には良質な建築材料である杉やヒノキがたくさんあります。
戦後、おじいさんたちが植林し、手塩にかけて育て上げた木材が、今か今かと出番を山で待っているのです。

しかし、PR不足もあり、現状はなかなか使われていないのが現状です。
この木材を家造りにどんどん使って発信し、地元の林業に還元できれば地域産業の活性化につながると確信しています。

そんな夢を抱き、社名を「山のめぐみ舎」としたのです。
伊賀で地元の木材を使ったリフォームなら「山のめぐみ舎」と言われるように頑張るぞ〜〜!!

山のめぐみ舎とは

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